動植綵絵,老松白凰図
動植綵絵 老松白凰図

ゴールデンウィークの今、大変な混雑をみせている展示会があります。
今年生誕300年を迎える伊藤若冲の展示会です。

テレビ番組美の巨人たちでも
その若冲の天才ぶりは紹介されています。

4月30日の「美の巨人たち」で紹介されるのは
『釈迦三尊像』3幅と『動植綵絵』30幅です。
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青物問屋の長男として生まれた若冲

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最高傑作といわれる『釈迦三尊像』『動植綵絵』
そこには若冲の驚きの技があえりました。

伊藤若冲は18世紀初頭の1716年に京都で生まれました。

今の京都の錦市場付近にあった「まつげん」という青物問屋の長男として生まれましたが商いが嫌いなうえ、跡取なのに妻をめとらず40歳で家督を弟に譲って隠居してしまいます。

そして本格的に取り組んだのが絵の道です。

しかも、ほとんど独学で始めたというから驚きです。

3年後、前代未聞の花鳥画の制作に挑みました。

伊藤若冲 最高傑作『釈迦三尊像』『動植綵絵』

伊藤若冲,釈迦三尊像
伊藤若冲の「釈迦三尊像」

中央に掛けられるのは
釈迦如来 鮮やかな色彩を重ねて
強烈なコントラストをつけて描かれています。

右側には青い獅子に乗った
文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)

左側には白い像にのった
普賢菩薩像

そして見る者の度肝を抜くのが『釈迦三尊像』を取り囲むようにずらりと
並べられていた『動植綵絵』です。

 

極上の絹に描かれています。

動植綵絵
動植綵絵 全30幅

描かれているんのはごく身近にいる生き物たちです。
30幅のうち半数以上は鳥、中でも最も多いのが8幅も描いた鶏です。

そして、植物、魚介類、虫や水辺の生き物の世界も。

京都の相国寺

京都御所の近くに相国寺があります。

この2つの絵は40歳の時絵の道を進み始めた伊藤若冲が京都の名刹・相国寺に寄進するために描いた作品です。

この、『釈迦三尊像』は『動植綵絵』対になっていて

『釈迦三尊像』は東福寺が所蔵していた仏画を鮮やかな色彩で模写したもの。

そして、その周囲を飾るために身近な生き物を描いたのが『動植綵絵』です。

この2つの作品から『永久不変の美を追求した絵師が作品に込めた想い』とは
なんだったのか?

京都相国寺
京都相国寺

没骨法

若冲の絵はまるで今、描き上げたばかりのように
色彩が鮮やかなわけは?

若冲の絵はリアルで過剰なまでの緻密さです。

若冲の絵をよく見てみると
没骨法とよばれる
余白で輪郭を描く技法が使われています。
花びらの隙間1mほどです。

肉眼では見えるか見えない世界に
その集中を注ぎました。

若冲の超絶技巧 輝く羽の秘密

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そして『動植綵絵』の金色に見える部分は実は金ではありません。
『動植綵絵』は1999年から2004年にかけて修復調査が行われました。

そして衝撃の事実が次々と明らかになりました。

若冲の超絶技巧 輝く羽の秘密

鳳凰や孔雀 鶴などの白い鳥の金色に光る羽にも秘密があります。

彩絵とよばれる鮮やかな絵ですが
実は色彩のマジックです。

目が覚めるように鮮やかに見えるのはなぜでしょうか?
その秘密はちょっと薄暗い背景にあります。

若冲が追求した色彩とは「光」の色

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白い絵絹に
薄墨を塗りそれを下図の上に
膠で顔料の胡粉を解き
羽の質感を出すための濃淡を分けて描いていきます。

次に用意したのは
黄土

実は若冲が羽に使ったのは金ではありませんでした。
金と比べると黄土は黄色が強く感じられます。

その、黄土を絵絹の表からではなく裏から
彩色したんです。

白い鳳凰の絵は表面と裏面から描いていたんですね。
表から見ると羽が金色に見えます。

プルシャンブルーと伊藤若冲

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若冲の絵の具に対するこだわりを知ると
『動植綵絵』を描いた真の狙いがわかってきます。

描いた雀の目から多くの鉄分が検出されました。
発色にも色褪せない上質の絵の具を求めます。

郡魚図の一匹の魚「ルリハタ」に塗られた色の
藍色にこそ『動植綵絵』を描いた真の狙いがありました。

実はこの一匹だけに塗られた藍色が美術史の定説を覆しました。

 

左下の黒っぽく見えるのがルリハタ
左下の黒っぽく見えるのがルリハタ

プルシャンブルーという
西洋の顔料だったんです。

プルシャンブルーはドイツで1704年に発明されたもので
当時、日本に入ってきたばかりで発色がよく色褪せないこの色を
いち早く使っていたのです。

青に込めた思い

ドイツで発明されたプルシャンブルーが日本で広く知られたのは
100年後の19世紀です。

葛飾北斎もこの色に魅せられました。

これまでプルシャンブルーが日本で最初に使われたのが1770年代前半とされていましたがしかし若冲はそれよりも10年近く前にこの色を使用していたのです。

若冲の永遠にかける思い永久不変な美を描く

西洋の新しい絵の具プルシャンブルーは
当時、驚く程高価でした。

莫大な費用をつぎ込んでまで
この一色の絵の具に魅せられたのは何故か?

相国寺には
大典顕常(1719年~1801年)という僧がいました。
若冲という名をさずけた人です。

大典顕常(1719年~1801年)
大典顕常(1719年~1801年)

まだ、若冲が青物問屋の主であった頃
大典顕常と出会い影響を受け禅の道にはいり

そして、絵に志す若冲を支えてくれました。

その、大典顕常の恩に報いるように制作したのが
驚異の彩色画『動植綵絵』でした。

大典が若冲から聞いたことを文章にしたものが残っています。

その中の一つに
「流行に興味はない」
「自分が書きたいものを毎日、毎日、人と違うように描いてゆく。
そこが、他の絵かきと違うところだ」

毎日、毎日人と違うように、、、、

その中には誰もが使えないような絵の具も
なんとかとり寄せて使ってみたい。

若冲の真の狙いは
永久不変な美を描くこと。

伊藤若冲
伊藤若冲

だからこそ変色しない絵の具にこだわったのです。
若冲はこの作品に強い願いを込めていました。

世間に画名を広めたいといった
軽薄なしで描いたのではありません。

全てを相国寺に喜捨し
荘厳の具となり
永久に伝えられることが望みです。
(若冲の寄進状より)

永久に伝わるように
己の作品を未来へ
若冲は生きた証を残すように10年という途方もない歳月を費やして
普遍の美を描き上げたのです。

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