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美の巨人たちは大徳寺にある狩野永徳の 作品「花鳥図」の秘密に迫ります。
狩野永徳と千利休
大徳寺 聚光院『花鳥図』に夏がない理由。蓮池藻魚図とは?
戦国の時代に織田信長と豊臣秀吉に仕えた絵師・狩野永徳と天下の茶人・千利休
二人の関係と夏が描かれていない「花鳥図」の謎を追います。

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狩野永徳『花鳥図』

狩野永徳

室町後期・安土桃山時代の画家・狩野派四代目絵師

永徳は父松栄に画法を受け、祖父元信の筆意を会得する。

織田信長の御用絵師となるが、晩年は豊臣秀吉に仕えた。

代表作に京都・大徳寺 障壁画『花鳥図』があります。

京都・大徳寺 狩野永徳『花鳥図』

狩野永徳『花鳥図』は

千利休の菩提寺であり、侘茶の聖地として知られる大徳寺

聚光院 方丈の間に飾られています。

『花鳥図』に夏が無いのは一体なぜ?

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『花鳥図』 西側 秋の図

『花鳥図』に夏がなく、季節の配置もばらばらなのは一体なぜ?

狩野永徳の『花鳥図』大胆なで描かれた大胆な構図と筆で描かれた水墨画の大作で

大画方式と言われる永徳 独特のダイナミックな技法を見ることができます。

『花鳥図』の東面 北面 西面を見てみると

東面には春の光景が
枝が伸びる梅の木その下にはその下には清流が流れています。
梅は満開紙面ではおしどりの群れが遊んでいます。

北面には冬の光景が
東面に描かれた清流の源があり、うっすらと雪を頂いた山
泣き声をあげる丹頂鶴と松の大木が画面をはみ出すように描かれ
松の傍の茶の木に花が咲いていまる冬の図です。

そして西面には秋の光景が
松の木の反対側には餌をついばむ鶴と
その左側には水辺の芦原に雁が飛来しています。
こちらは秋の様子です。

 

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生き生きとした花木と鳥の華麗なる世界が『花鳥図』に描かれていますが

夏がありません。

なぜなのでしょうか?

その秘密は北面の襖の向こう側にありました。

あるものが隠されているのです。

襖を開けると現れたのは仏間でした。

笑嶺宗訴の位牌と彫像

その下に描かれているのが永徳の父・松栄の蓮池藻魚図です。

蓮池藻魚図
蓮池藻魚図

きれいな蓮の花と魚たちが柔らかな筆で描かれています。

蓮と動物たちが語る夏の光景です。

実は夏はこの仏間の蓮池藻魚図に描かれていて

永徳の花鳥図を開けると見えてくるという仕掛けだったのです。

大胆で粋な世界がここにはありました。

絵師・狩野永徳と茶人・千利休

戦国時代、織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に寵愛された

狩野派四代目絵師・狩野永徳と

天下の茶人・千利休

京都・大徳寺の国宝の障壁画『花鳥図』は

2人のコラボ作品だった?

京都・大徳寺の

聚光院は千利休の菩提寺として知られています。

そして、利休と永徳の関係は

方丈の前の庭に関係があります

百積庭
百積庭

国の名勝に指定されてる百積庭と言われるこの庭は

千利休が策定したものと伝えられています。

そして、実はその下図を描いたのがなんとかの永徳だというのです。

この2人の蜜月は途方もない技術を生み出しました。

それでは、いったい何が利休とのコラボなのでしょうか?

『花鳥図』は春が画面の左側から、

北面の左側から西目にかけてはにかけては冬が

その左側は秋が描かれていて

季節がバラバラに描かれています。

一見まとまりがないように見える『花鳥図』

実はそれを1つにしているものがあります。

それは水です。

利休の百積庭と永徳の『花鳥図』

東面から流れる清流は山から流れ出た雪解け水と合流し大地を潤し恵みを与えています。

やがて大河となり、そしてその先にあるものといえば

そう、海です。

永徳は自然界の生々流転を表したかったのかもしれません。

しかし、花鳥図には海は描かれていません。

では描ききれなかった海を表すためにした事とは?

百積庭の下図を描き自然界を表現したかったのかもしれません。

永徳は花鳥図で描ききれなかった海を利休に託したのでしょう。

実は百積庭は完成当時は

今のように苔むした庭ではなかったと言います。

白石が敷かれていたというのです。

まさに海をイメージさせるものでした。

究極のコラボがとくと利休の究極のコラボが完成させたこの花鳥図を完成させたのです

しかし、それから10数年後

利休は特に罵声を浴びせるのです。

一体2人に何が起きたのでしょうか?

利休の切腹と永徳の急死

龍宝山大徳寺の『花鳥図』

永徳の花鳥図は利休なしでは出来なかった対策です

その秘密は部屋の前に広がる庭に百積庭ありました。

しかし、蜜月といわれた永徳と利休が後年、袂を分かつこととなります。

その原因は豊臣秀吉のまわりにありました。

戦国武将の中でも秀吉は農民の出身でコンプレックスを持っていました。

1584年の信長の3回忌を主宰した時に永徳に信長の肖像を描かせたのも

後継者としての正当性をならざる武将たちに認めさせるためです。

永徳も利休も共に秀吉を天下人に祭り上げるためバックアップをしてきていたのです。

しかし、永徳と利休が不仲になってしまう

そこにはライバルの存在がありました。

1590年京都御所で皇后の部屋の障壁画制作を巡り

狩野派と対立する長谷川等伯と競います。

障壁画制作は長谷川等伯に決まっていたものの

永徳が公家に直訴しひっくり返します。

しかし、そのやり方に利休が激怒したのです。

実はこの頃、千利休は等伯を気に入り

大徳寺山門の柱柱の装飾を任せるなど等伯を登用していました。

皇后の部屋の障壁画制作を巡り

永徳と利休の関係は急速に悪化してゆきます。

そして、永徳は48歳の若さで急死

心労と過労が原因であると言われています。

そして、翌年

大徳寺山門の事件等で秀吉の中で利休への不信感が広がっていって

利休に切腹命じたのです。

大徳寺聚光院の

大画様式で描かれた、花鳥図の中に秀吉の天下取りを支えるために

邁進した永徳と利休の証蜜月の証があります。

すべてをつなぐ水の流れ

純粋に美を求めた2人の究極の究極のコラボです。

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